■空前絶後のキャラクター、マクガイバー
アメリカのアクション・ドラマの特徴的なところは、やっぱり何かのきっかけで‘アメリカン・ジャスティス’が表出してしまうところ。主人公に、アメリカ人の考えている正義を載せたくなるんです。単に、困っている人を助けたい。それは、ピーター・ソーントンが困っているから助けたいと言う手近なところから、もっと大きなところで言えば、虐げられている人を救い出したいという思いがある。国とか組織ととか関係ない。あらゆる人が自由に生きられればいいんだ、と。
だから、第4シーズンや第5シーズンになってくると、子供たちを麻薬から救うエピソードとか、子供たちを無料のチャリティーのスポーツクラブに通わせて不良グループから脱出させるエピソードというのが増えてきて、フェニックス財団がだんだん遠のいていってしまう。あるいは、戦争が終結後の大混乱している国で、そこで盗みをして暮らしている孤児の子供たちをマクガイバーが地元のマフィアから切らせてやるエピソードとか、子供たちを悪の組織から守らなければいけないと言うのが、後半の『マクガイバー』のほとんどのテーマになってくる。
マクガイバーのいいところは、何かノンシャランな、ほんとうの自由人みたいな、70年代のフラワー・チルドレンの理想みたいなキャラクターであるところです。何にも縛られずに、自分の好き勝手をやってでも性格が荒れずに、結婚をしていないけれど女友達は何人もいる。本当のバランスのいい、大人の、若さを失っていないキャラクターなんですね。
見ていると気づくんですが、マクガイバーはフェニックス財団に雇われているわけじゃあないんですよ。単にピーターとの友情で引き受けているだけなんですね。フェニックス財団から依頼を受けて、いろんな事件をカイケツするスペシャル・エージェント。もちろんフェニックス財団所属の名刺みたいなものを持ってはいるんでしょうけど、基本的には命令では動かないんですよ。ピーターが「マックにしかできん。頼む」というと、「しょうがないなあ」とか「他に人はいないの?」とか言って、しかも銃は使わない、ナイフも使わない、ともかく科学知識とひらめきと勇気と抜群の行動力であらゆるものを切り抜けていくという、ある種SFの盲点をついている物語です。そういう点でも『冒険野郎マクガイバー』というのは空前絶後で、前後に似たものがないんですよ。この作品だけ。だからリチャード・ディーン・アンダーソンが抜けると成立しないところがある。
リチャード・ディーン・アンダーソンは、『冒険野郎マクガイバー』の後、MGMで『スターゲイト SG-1』という作品で、今度はプロデューサーも兼ねてSFをやるわけです。「マクガイバー」をやっていたパラマウントTVのプロデューサーがMGMテレビへ移って、製作を担当します。ただ、『スターゲイト SG-1』でのリチャード・ディーン・アンダーソンの出番は第8シーズンまで、その後は『スターゲイト アトランティス』のエグゼクティブ・プロデューサーにシフトする予定です。もともと役者としてはユニークな人で、本人にはあまり役者という意識がない。マクガイバーみたいな人なんですよ。あまりお金もうけをしたいという意識がないみたい。ただ体を鍛えていることが好きみたいで、アメリカの俳優のなかでは、個性派ですよね。最近、彼は子供が出来て、子供と親の問題をものすごく考えているようです。インタビューを読むとともかく子供が大切で、子供たちが楽しめるものを創りたいとか、自分の子供がどうなっていくのかを親はもっと心配しなくてはダメだとか、本当に親としての発現が増えています。
「パラマウント・ビデオ・ホームページ:海外テレビドラマ評論家 池田憲章が語る!」 2005年 再録
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